会員随筆集

戦後70年前後を振りかえって

県3期 本田 光徳

戦後70年と騒がれているが、38か月の太平洋戦争後半の昭和18年から終戦の8月までと、その後の2年ぐらいの間に、私自身や私共は今日の人生を左右する大きな経験をし、そして味わってきた事などを語りたいと思います。

昭和18(1943)に入学した頃は戦況が次第に悪化してきたので、夏休みを返上して、福岡県築上郡築城町に航空隊基地があって、米軍の爆撃から守るため、高い土手を造る作業に出動したのである。宿泊は数棟の兵舎にそれぞれ分かれていた。級友は福岡県出身が多く、次いで九州各県、その他は東は茨城、石川、名古屋、そして関西、広島などで、その他台湾から4名の留学生がいた。勿論その頃はカラオケなどはなく、浪花節が得意なT君の広沢虎造ばりの名調子に耳を傾けながら、毎夜を友と語り合い過ごしたのであった。ここでお互いに堅い友情が結ばれたと思う。

昭和19年には食糧増産という名目で、築城町や吉井町の農家にそれぞれ分かれて泊まり込んで、暗渠排水の溝を作る作業に行ったこともあり、そこで白米を腹一杯食べさして貰った嬉しい楽しみもあったりしたのである。この年医学科を併設して、福岡県立医学歯学専門学校となった。

昭和20年には警戒警報が発令されると、記念病院や避難場所となっていた小学校に当番制で詰めると云うこともあった。ある夜、三萩野に爆弾が落とされて、死傷者が運ばれて来た時は驚きと恐怖で、慌てて立ちすくんだことを記憶している。

この頃である。出征する先輩を送別会後、学校の前の広い道路を横一列で歓声をあげながら、歩いていたことがあって、翌日憲兵隊に呼び出されて、こっぴどく油をしぼられるということもあったりした。

ある日、大門近くにあったO君の下宿を訪ねていた時、特高(今の公安)が突如踏み込んできて、別室の或る人を連行していったことがあった。その彼の部屋にマルクスの共産党宣言なる書があったことは知っていたが、その頃は全く無知で何も分からなかったが、これが後述の事柄に関連してくるとのことであった。

8月の上旬、4年生は当時、3年半の繰り上げ卒業で、我々が最高学年となり、前期試験中で、9日は八幡の製鐵工場が空襲され、母校の近くにも焼夷弾が落とされて、試験は中断し消火活動となった。そしてラジオでは私にとって重大な運命となる放送が流されていたのである。「長崎に新型爆弾が投下されたが、被害は不明」と。

10,11日と試験はあったが、長崎市から来ていた5人は急遽夜行列車で帰ることとなった。12日の昼頃、やっと長崎の浦上駅に着いた時は、一面の原子野であった。S君と私は近所で、爆心地より500米であったので、家族を失うということとなった。小倉に復帰したのは9月の上旬で、そこで追試験を受けると云う次第になった。

戦時中、いろいろと耐え忍んで生活してきた我々にも、当時の世相と同様に、戦中のスパルタ的教育に反発してか、なんと一部のリーダーによって講義の放棄を提起され、3年生だけが昭和町の近くの小高い丘に集まり、T教授と二、三の教師に退任を求めたのである。恐らく戦後では初めての学生、生徒による学業ボイコットであったと思う。この件は前述の大門の人が係わり合ったと聞いたが、詳しくは不明で、しかし要求は通った。

昭和20年からは、いわゆる外地からの復員が始まった。そこでK君そしてもう一人(氏名を思い出せない)の三人で、博多や舞鶴、鹿児島に上陸し、丁度門司駅に夜11時頃に列車が停車する際、ホームを駅員と手分けして走り回り、湯茶や濡れたタオルの接待を何か月か続けた。実はこれが機縁で、昭和211222日の早朝に発生した南海大地震の時、私共が結成した北九州学生同盟(政治、思想とは無関係)で、小倉から遠く和歌山、新宮の地震、津浪の被害地の救援へ向かった。その交通や宿泊費などの一切を当時の国鉄がお世話してくれたのである。これは国内初のボランティアだったと私共は自負している。

前述のように昭和19年に医学科が併設され、福岡県立医学歯学専門学校となったが、昭和22年当時の占領軍の意向と教育制度の改革が行われ、医学科は廃止され、私共が卒業と同時に福岡県立歯学専門学校となった。そして第一回歯科医師国家試験が施行されるということになったのである。

何しろ初めての事なので、クラスで互選して国家試験対策委員会を立ち上げた。試験委員を依頼された各校の先生が出題した卒業試験の問題と、その先生の得意とする分野をお互いに交換することになった。勿論、医科歯科、東京歯科、日本歯科そして日大歯科で大阪歯科も。試験日が迫ってきたので、予想問題集を手刷りで、級友に配ったのである。こんな大変な苦労はあまり知られていない。国家試験が済んだら、各々帰郷してしまったからである。

学科試験(内容は忘れたが、基礎と臨床)。実習試験は(ワックスパターンしてキャストまで。そして総義歯の陶歯排列)患者で2級の局所麻酔なしでの形成をし、アマルガム充填(依頼した患者に大変なことを)。ここまでは、まあまあで、口頭試問での患者の問診と診断で、この点は未経験だったので、みんな手間取ったのである。

笑い話なのは18金の線を18金鑞で接着できるか?であった。エンピツを立てて、左に倒れたら「ツク」と。当時は銀鑞しか見たこともない時代ですからと、しておきましょう。

国家試験の発表は630日であったが、残念ながら第一回の合格は60%程度ではの記憶である。

私は4月、当時の大阪帝国大学医学部選科(後の阪大歯学部)の入学試験を受験し、今日までの関西生活となった次第である。

戦後70年前後の母校にからまる歴史のような物語を書きましたが、もう当時を知る人も少なくなってきているので、これにて。

本田 光徳※

九州歯科大学大阪府同窓会(県3)

元大阪労災病院口腔外科部長


2004(平成16).5.30
定時総会における乾杯の発声をされる本田先生


 連日連夜の猛暑には何となく耐えて過ごしております。
本日は小生86歳のバースデーですが、例によって1人で過去を省み乍ら、届いた「なに歯だより7号」を嬉しくそして楽しく拝見致しております。
同窓生の活躍を拝見して、頼もしい後輩達の歯科界に対する気構えに敬意を表しており、益々の発展、努力を期待します。   2010(平成22)年8月29日


首相の核抑止容認は的外れ


 長崎に原爆が落とされたとき、軍医養成の医科系専門学校の学生だった20歳の私は、福岡県小倉にいた。2日後、故郷に戻って家族を捜した。当時43歳だった母は所在がわからず骨さえ拾えなかった。生き延びた15歳の弟も、被爆から10日後、「悔しい、悔しい」と叫びながら旅立った。
 父と2人で小高い丘に弟を運び、雑木を集めて一昼夜かけて焼いた。丘はキョウチクトウが満開だった。その父も、10年後に原爆症で亡くなった。毎年、原爆忌には長崎に戻ることにしてきた。 
 今年は、潘基文・国連事務総長が初めて長崎を訪れ、広島の式典に参列した。ルース駐日大使も初めて広島の式に出席した。私は「悲願の核廃絶への道がやっと見えてきた」と感激した。
 ところが、菅直人首相は広島での会見で、「核抑止力は我が国にとって引き続き必要だ」と述べたというのだ。私は「首相の見方はピントが狂っているのではないか」と考えざるを得なかった。
 (朝日新聞 2010(平成22)年8月14日付 「声」欄に投稿)


編集長から

 被爆から65年を迎えた今月6日、広島市で開かれた平和記念式に、原爆を投下した米国や核保有国の仏代表らが初めて出席しました。
 原爆使用国の道義的責任を認めるオバマ大統領の姿勢が表れた動きと歓迎し、「米国人の意識が変わり、世界中の人々が原爆投下の罪を認識し、核廃絶への決意を示すことを強く望む」との声が寄せられました。
 一方、式に出た菅直人首相が会見で「核抑止力は我が国に引き続き必要」と語った姿には、「ピントが狂っている」「平和国家日本の首相にふさわしい行動を」と批判が続きました。(以下略)
 (朝日新聞 2010(平成22)年8月27日付 「声」欄より)


昭和22年(1947)福岡県立医学歯学専門学校歯学科から最初の大阪帝国大学医学部歯科学講座選科(16回)入りで、昭和27年(1952)第一口腔外科学講座助手になり、また開設当初の口腔生理学講座にも参加され、昭和33年(1958)には講師となり、レントゲン室の新設と整備に尽力された。 昭和35年(1960)退官後は四国海部中央病院歯科医長、大阪労災病院歯科口腔外科部長として唇裂・口蓋裂の手術などで業績をあげられた。 


九州歯科大学と大阪大学歯学部 ―人物往来―


             
山本 克彦1) 本田 光徳2)
          
1)九州歯科大学大阪府同窓会(大19)、元大阪大学歯学部講師
     2)九州歯科大学大阪府同窓会(県3)、元大阪労災病院口腔外科部長

 平成12年(2000)11月に九州歯科大学32期の丹羽 均先生が大阪大学大学院歯学研究科の高次脳口腔機能学講座(歯科麻酔学教室)の二代目教授に就任されました。 九州歯科大学卒業後、大阪大学歯学部で研修し、第二の母校と慕っていた私達にとって非常に感慨深いことでした。 日本の歯学界ではともに伝統校で多くの歯科医師を誕生させ、育ててまいりました。 古くから両校にはひとの交流があったのですが、その記録や報告はみられないようです。 昔のことを覚えておられる先生も少なくなり、また昨今の個人情報保護の風潮で調査が難しくなっていることから、今がその歴史を記憶に留めるいい機会と思い、文献,伝聞,私信、直接取材などの方法で調べましたので、ここに報告させていただきます。
  
 九州歯科大学は、大正3年(1914)私立九州歯科医学校の創立に始まる。 大正10年(1921)に財団法人九州歯科医学専門学校に昇格し、続いて昭和19年(1944)大戦中の国策要請によって医学科を併設して県に移管され、福岡県立医学歯学専門学校となった。 昭和20年(1945)8月の終戦をむかえ、占領軍の行政管理化で教育制度の改革がおこなわれ、昭和22年(1947)医学科は廃止となり、福岡県立歯科医学専門学校と改称された。 尚医学科を中退した5名の方が大阪帝国大学医学部附属医学専門部へ進学されたそうです。 昭和24年(1949)学校教育法に基づく新制大学として福岡県立九州歯科大学が開学し、 最初の入学試験は九州歯科大学、東京医科歯科大学、大阪大学医学部の3箇所で行われた。 平成20年(2008)現在創立95年である。
 
 大阪大学歯学部のルーツは大正15年(1926)大阪府立医科大学に歯科教室が設置され、耳鼻科医だった弓倉 繁家教授が就任されたことに始まる。 昭和6年(1931)大阪府立医科大学は大阪帝国大学医学部となり、総合大学が発足する。 昭和7年(1932)医学部の歯科学講座となり、同時に大阪帝国大学医学部選科に歯科専攻の科が開設され、教官の充実と強化に努めることとなった。 医学部選科は歯科医学専門学校卒業生を対象にし、ドイツ語、英語、歯科学の入学試験があり、医学博士を取得するには選科出身が条件とされていたことから、難関であった。 年限は1年で卒業試験もあり、細菌学、病理学、解剖学の基礎学やドイツ語と臨床実習を医学部の助教授級の方がマンツーマンで徹底的に教育するシステムで今の大学院に相当するかもしれない。 当時歯学あるいは歯科医師の教育は私立の東京歯科医専、日本歯科医専、大阪歯科医専、九州歯科医専、日大専門部歯科と官立の東京高等歯科を含む8校の専門学校に委ねられ、大学レベルのアカデミックな卒後教育は大阪帝大、東京帝大、九州帝大などの医学部の歯科教室が、研究・診療の中心になっていた。 戦後昭和22年(1947)大阪帝国大学は国立総合大学として大阪大学に改められた。 昭和25年(1950)大阪大学医学部歯学科を経て、昭和26年(1951)国立の総合大学で最初の独立した大阪大学歯学部の誕生となった。 

 そこで九州歯科大学と大阪大学歯学部の人物往来の歴史は戦前の専門学校と戦後の新生大学の二つの時代に大別して記述することにする。

1)九州歯科医学専門学校~大阪帝国大学医学部選科の時代
 
ここでは九州歯科医学専門学校を卒業し、最初に大阪府立医科大学歯科教室に入局された先輩諸兄の足跡から著述の第一歩を始めます。 敬称は略させていただきます。

 九州歯科医学専門学校から大阪府立医科大学歯科教室への最初の入局者は専門5期の竹田 四郎で昭和4年(1929)だった。 後に京都府立医科大学の口腔外科に移られた。 昭和6年(1931)には専門7期の古賀 要次が入局された。この年には神田 三郎(専門7期)が見学生で在室され、研修後九州歯科医学専門学校の口腔外科に帰られた。 ところで昭和3年(1928)に弓倉教室に短期国内留学された高橋 武雄(専門4期)はその後九州歯科医学専門学校教授:昭和17年1月~昭和19年4月、福岡県立医学歯学専門学校歯学科教授:昭和20年4月~昭和21年3月となられ、戦中戦後の苦難な時代に母校の存続にご尽力された。 また同時期に歯科教室に入局された新畑 小一郎は大阪歯科医学専門学校の卒業生で昭和6年4月~昭和16年12月まで九州歯科医学専門学校の口腔外科教授を務められた。 退官後当時は国内でも非常に珍しい口腔外科専門の歯科医院を京都市で開業された。 京都府歯科医師会の初代会長としても活躍され、京都府の同窓会会員は大変お世話になった。 九州歯科医学専門学校の口腔外科は新畑教授の次が高橋教授と弓倉教室に縁の深い方が続けて就任されたことになります。 また同じ昭和3年歯科教室に入局した湖崎 武熈は日本歯科医学専門学校の出身で昭和7年九州歯科医学専門学校の補綴科の教授になった後、高松市で開業された。

 昭和7年からは前述した大阪帝国大学医学部選科を終了後歯科学講座への入局となった。 最初は昭和9年(1934)の選科3回生で九州歯科医学専門学校10期の堀 繁喜だった。 昭和10年(1935)の選科4回は専門11期の山本 勝で、選科修了後入局した弓倉教室はその当時医学部の一講座であったのに、保存・補綴・外科・矯正の4部と25床を有していた。 昭和20年(1945)大阪帝国大学医学部歯科学講座の助手になったが、当時主任教授は弓倉 繁家(後の初代歯学部長)、助教授は永井 巌(第1口腔外科教授)、もう一人の助手は川勝 賢作(第2口腔外科教授)だった。 昭和24年に大阪大学で医学博士を受領し、九州歯科医学専門学校卒で大阪大学での学位取得第一号となった。 昭和13年(1938)選科7回は専門14期の槙野 可代二で、昭和25年(1950)医学部助手、昭和26年(1951)には歯学部歯科保存学講座の助教授、そして昭和36年(1961)和歌山県立医科大学の歯科口腔外科教室の初代教授になられた。 九州歯科医学専門学校卒大阪大学歯学部経由で初めての教授誕生だった。 尚現在の和歌山県立医科大学口腔顎顔面外科学講座教授も九州歯科大学卒京都大学医学部経由の藤田 茂之(大学29期)である。 昭和21年(1946)選科15回は弓倉 敏輝(専門19期)で、昭和26年(1951)大阪大学歯学部助手、昭和31年(1956)第二歯科補綴学講座の助教授になられた。 伊丹市で開業後も外国へたびたび出かけられ研鑽を積まれた。 昭和22年(1947)福岡県立医学歯学専門学校歯学科から最初の選科16回入りは3期の本田 光徳だった。 昭和27年(1952)第一口腔外科学講座助手になり、また開設当初の口腔生理学講座にも参加され、昭和33年(1958)には講師となり、レントゲン室の新設と整備に尽力された。 昭和35年(1960)退官後は四国海部中央病院歯科医長、大阪労災病院歯科口腔外科部長として唇裂・口蓋裂の手術などで業績をあげられた。 昭和24年(1949)選科18回入りは増山 弥太郎(福岡医歯専3期)だった。 昭和28年(1953)第一口腔外科学講座助手、その後永井 巌教室の講師・医局長として活躍され、昭和43年(1968)公立学校共済組合近畿中央病院歯科口腔外科部長となられた。 弓倉、本田、増山先生方には九州歯科大学同窓会の大阪府と兵庫県の会員は大いにご指導とご高配を賜わりました。 昭和26年(1951)選科20回には藤本 泰男(福岡歯専6期)が入られた。 選科は昭和27年(1952)の21回で修了し、昭和28年(1953)からは専攻生として、昭和30年(1955)からは歯学部の各講座への直接入局となった。 

2)九州歯科大学~大阪大学歯学部 
 
大戦後の昭和24年(1949)福岡県立歯科医学専門学校は福岡県立九州歯科大学へと昇格し、一方昭和26年(1951)大阪大学歯学部は医学部歯学科から分離独立した。 大阪大学歯学部誕生時の昭和26年(1951)度の歯科矯正学の講義は九州歯科大学教授の横田 成三が担当された。 昭和35年(1960)崎田 道臣(福岡医歯専3期)が第一口腔外科学講座に入局し、 その後九州歯科大学大阪府同窓会会長として会の発展に努められた。 昭和36年(1961)九州歯科大学8期の生野 重熙は第一歯科補綴学講座に入られた。 大阪市で開業されながら昭和51年(1976)歯科麻酔学講座に移られ、熱心に研修された。
昭和44年(1969)伊地知 忠(大学17期)が第一歯科補綴学講座に入局された。 明石市で開業され、九州歯科大学同窓会近畿・北陸地区連合会の監事をされている。 昭和45年(1970)大学18期の荻野 哲郎は第二口腔外科学講座に入られ、その後丹波市で開業された。 この頃大規模な大学紛争のために、全国各地で入学や卒業試験、資格試験などに多大の影響が生じた。 昭和46年(1971)大学19期の山本 克彦は第一口腔解剖学講座の助手に任官した。 昭和47年(1972)に大学院歯学研究科に入学し、九州歯科大学出身者で最初の大学院生となった。 昭和53年(1978)大阪大学歯学部講師となった。 退官後堺市で歯科医院を継承し、現在九州歯科大学大阪府同窓会会長としてその任に当たっている。 昭和47年(1972)大学19期の岡 幸宏は歯科矯正学講座に入られた後、大阪市で開業された。 大学20期の須田 宜之は第二口腔外科学講座に入局され、後に生化学講座に在籍された。 大阪の中心地梅田で開業後も海外で多くの研鑽を積まれ、後輩の指導もされている。 同期の小野 善弘は第二歯科補綴学講座入局後、別府市での開業を経て、昭和57年ボストンのThe Institute for Advanced Dental Studiesに留学された。 平成4年(1992)には大阪大学歯学部同窓会主催の第7回国際歯科臨床セミナーで恩師のDr.Myron Nevins 先生と「ペリオの現在と将来展望」を講演された。 大阪と東京にオフィスを持たれ、歯科医師の卒後研修にも貢献され、日本を代表する臨床家の一人として精力的に活動されている。 昭和48年(1973)大学21期の森本 正樹は第一口腔外科学講座に入局後、三木市で開業された。 同期の阪上 安輝は歯科矯正学講座に入局後、自衛隊病院を経て熊取町で開業された。 昭和49年(1974)守谷 佳樹(大学22期)が第一口腔外科学講座に入局され、その後綾部市で開業された。 九州歯科大学京都府同窓会副会長をされている。 同期の大木 仁子は口腔治療学講座で研修された。 大学16期の松本 護は第二口腔外科学講座に入局された後、西宮市で開業された。 昭和50年(1975)元村 太一郎(大学23期)が大阪大学大学院歯学研究科に入学された。 専攻は第一口腔外科学で大学院博士課程を修了後、松本歯科大学の講師(口腔外科学)を経て、神戸市で開業された。 大阪大学歯学部の非常勤講師(顎口腔機能治療部)も兼任され、現在九州歯科大学兵庫県同窓会会長を務められている。 昭和51年(1976)北村 幹夫(大学24期)は歯科矯正学講座に入局後、高槻市で開業された。 昭和52年(1977)には歯学部ではないが、大阪大学大学院医学研究科に大学25期の羽地 達次が入学され、微生物病研究所で細菌ウイルス学分野を専攻された。 昭和56年(1981)大阪大学大学院医学研究科終了後、大阪大学微生物病研究所、城西歯科大学助手(口腔解剖学第一講座)、福岡歯科大学講師(口腔生化学講座)、ロックフェラー大学、コロンビア大学への2度の留学を経て、千葉大学医学部助手(解剖学第二講座)となられた。 平成5年(1993)九州歯科大学助教授(口腔解剖学第一講座)で母校に帰任された後、平成11年(1999)徳島大学歯学部教授に就任された。 現在大学院ヘルスバイオサイエンス研究部(口腔組織学分野)を担当され、細胞生物学的研究を精力的に展開されている。 昭和53年(1978)大学26期の濱田 傑は大阪大学大学院歯学研究科に入学された。 第一口腔外科学を専攻され、大学院を終了後、社会保険紀南総合病院を経て、昭和60年(1985)近畿大学医学部口腔科に赴任された。 その後助手、講師、助教授を務められ、平成19年(2007)近畿大学医学部歯科口腔外科の初代教授に昇任された。 同年10月には「濱田 傑先生教授就任記念祝賀会」が九州歯科大学大阪府同窓会の主催でヒルトン大阪で盛大に開催された。 診療最前線にいる地元の我々同窓会員にとっては、大きな精神的支柱ができたようで、心強いかぎりである。 昭和54年(1979)岡谷 親男(大学27期)が第一口腔外科学講座に入局された。 研修後大阪市で開業され、九州歯科大学大阪府同窓会副会長を務められている。 同期の斉藤 愛夫も第一口腔外科学講座に入られ、後に福井県芦原町で開業し、現在九州歯科大学北陸同窓会会長をされている。 平成21年(2009)から福井県歯科医師会会長就任が決まっている。 昭和55年(1980)今井 一雄(大学28期)は第一口腔外科学講座に入局後、濱田 傑とともに社会保険紀南総合病院歯科口腔外科に赴任された。 退局後高知県赤岡町で開業された。 同期の西本 達哉は大阪大学大学院歯学研究科に入学され、第一口腔解剖学講座に所属された。 昭和59年(1984)大学院終了後歯科臨床を研鑽され、大阪市で開業された。 昭和56年(1981)吉田 裕志(大学29期)は口腔治療学講座に入局後、大阪市で開業された。 同期の川井 満章は第一口腔外科学講座に入局された後、長野県飯田市で開業された。 同期の青木 修一は歯科麻酔学講座に入局後、高槻市で開業された。 昭和57年(1982)黒澤 治彦(大学30期)が第二口腔外科学講座に入局された。 退局後大阪市で開業された。 同期の竹森 哲司は口腔治療学講座入局後、明石市で開業された。 昭和59年(1984)前述した丹羽 均(大学32期)が歯科麻酔学講座に入局された。 平成元年(1989)大阪大学歯学部助手に任官され、平成3年(1991)岩手医科大学歯学部に移られたが、翌年大阪大学に戻られた。 平成5年(1993)大阪大学歯学部付属病院講師になられ、平成10年(1998)大阪大学歯学部助教授(歯科麻酔学講座)に昇任され、平成12年(2000)大阪大学大学院歯学研究科高次脳口腔機能学講座(歯科麻酔学教室)の二代目教授に就任された。 九州歯科大学出身者で最初の大阪大学歯学部教授の誕生となった。 近畿・北陸地区の九州歯科大学同窓会会員ならびに新卒の臨床研修医はよくお世話していただき、大変感謝している。 昭和60年(1985)錦 和彦(大学33期)は口腔治療学講座に入局後、芦屋市で開業された。 同期の竹森 康仁は歯科放射線学講座に入局後、大阪市で開業された。 同じ大阪市で開業されている長崎 林太郎(大学29期)は第一口腔外科学講座に入局された。 昭和61年(1986)米村 幸城(大学34期)は大阪大学大学院歯学研究科に入学された。 口腔治療学講座に所属され、大学院終了後ワシントン大学留学を経て、姫路市で開業された。 昭和62年(1987)中島 和久(大学35期)は大学院歯学研究科に入学され、生化学講座に所属された。 大学院終了後助手となり、テキサス大学に留学された。 帰国後平成16年(2004)東京医科歯科大学難治疾患研究所で分子薬理学分野のCOE特任講師となられた。 平成18年(2006)COE特認助教授から教授に昇進され、21世紀COEプログラム「歯と骨の分子破壊と再構築のフロンティア」の研究に取り組まれた。 昭和63年(1988)渡井口 賢一(大学36期)は歯科放射線学講座に入局された後、富田林市で開業された。 平成元年(1989)宮崎医科大学歯科口腔外科での研修を終えた佐藤 耕一(大学36期)は大阪大学歯学部顎口腔機能治療部へ入局された。 平成7年(1995)九州歯科大学第一口腔外科学講座助手で帰任された後、平成9年(1997)宮崎医科大学歯科口腔外科に転任され、助手、講師を経て、平成13年(2001)再び母校の第一口腔外科講座の講師として戻られた。平成19年(2007)に済生会松阪総合病院歯科口腔外科部長になられた。 現在大阪大学大学院歯学研究科顎口腔病因病態制御学講座(口腔外科第一教室)の招聘教員として口蓋裂に関する研究活動を継続されている。 野崎 剛徳(大学37期)は口腔治療学講座に入局され、平成9年(1997)IADR/Unilever Travel Awardを受賞され、医員を経て助教として研究・教育で活躍されている。 平成2年(1990)鎌谷 薫(大学37期)は歯科麻酔学講座に入局された。 平成4年(1992)岩瀬 勝也(大学40期)は歯科補綴学第二講座に入局された。 研究生,医員を経て、平成6年(1994)大阪大学大学院歯学研究科に入学され、歯科補綴学を専攻された。 大学院を修了後平成12年(2000)助手に任官された。 現在宝塚市で開業されている。 仕合 裕(大学40期)は歯科矯正学講座に入局後、亀岡市で開業された。 同期の児玉 裕美子は歯学部附属病院総合診療部に入局された。 平成9年(1997)加島 由紀子(大学45期)は口腔外科学第一講座に入局された。 平成11年(1999)森本 敬祐(大学47期)は歯科麻酔学講座に入局後、淡路市で開業された。

 平成12年(2000)4月から大阪大学歯学部は学部講座を主体とする教育・研究組織を改革し、2大専攻、6基幹講座、2協力講座、1連携講座よりなる大学院講座を重点とするいわゆる大学院大学に転換した。 さらに国公立大学は法人化の道を進むことになり、大阪大学は平成16年(2004)国立大学法人に、九州歯科大学は平成18年(2006)から公立大学法人となった。 また平成18年(2006)より全国の歯科大学・歯学部の卒業生の歯科医師臨床研修が必修化され、平成19年(2007)には助教授は准教授に助手は助教へと呼称変更された。 こうして歯科の教育・研究・研修ならびに大学や病院の運営に大変革の波がもたらされることになった。 

 平成12年(2000)谷川 千尋(大学48期)は大阪大学大学院歯学研究科に入学され、分子病態口腔科学(顎顔面口腔矯正学)を専攻された。 在学中に権威あるIADR(国際歯科学研究学会)における若手研究者を顕彰するための賞であるIADR Hatton Award本選の日本代表に選ばれた。 大学院終了後医員を経て口腔分化発育情報学講座(顎顔面口腔矯正学教室)の助教に就任された。 現在海外留学中である。 平成13年(2001)宇野 史子(大学29期)は歯科麻酔学講座に入局された。 松原市で開業されながら、大阪労災病院で研修を続けられている。 大学49期の安川(長谷川)陽子は大学院歯学研究科に入学され、統合機能口腔科学を専攻された。 大学院終了後は顎口腔機能再建学講座(歯科補綴学第二教室)に所属され、歯学部付属病院の咀嚼障害補綴科の医員を勤められている。 平成14年(2002)渡邉 彰代(大学50期)は高次脳口腔機能学講座(歯科麻酔学教室)に入局された。 大阪府立母子保健総合医療センター レジデント勤務を経て、現在堺市重度障害者歯科診療所に出向されている。 大学50期の江原 美奈は口腔分子免疫制御学講座(予防歯科学教室)に入局された。 森本 佳成(大学34期)は奈良県立医科大学口腔外科学講座の助手から大阪大学大学歯学部附属病院歯科麻酔科の講師になられた。 昭和61年(1986)九州歯科大学卒業後奈良県立医科大学口腔外科、島根医科大学麻酔科で研修された。 平成9年(1997)奈良県立医科大学助手(口腔外科)在職中に奈良県在外研究員として、University of Detoroit Mercy および St. Clare's Hospital(New York)へ留学された。 原田 英光(大学35期)は九州歯科大学助教授(口腔解剖学第二講座)から大阪大学大学院歯学研究科口腔分化発育情報学講座(口腔解剖学第一教室)の助教授になられた。 彼は昭和62年(1987)大学卒業後九州大学大学院歯学研究科(口腔外科学)に進学され、単位獲得後九州大学付属病院医員、日本学術振興会特別研究員を経て、母校の口腔解剖学第二講座にて助手、講師、助教授になられた。 平成10年(1998)ヘルシンキ大学生物工学研究所発生生物学部門に客員研究員として留学された。 平成18年(2006)岩手医科大学歯学部口腔解剖学第二講座教授に就任され、発生生物学や歯科再生医療の分野で活躍されている。 平成16年(2004)一森 康男(大学50期)は熊本大学医学部口腔外科で2年間研修後、大阪大学大学院歯学研究科に入学された。 口腔分化発育情報学講座(口腔解剖学第一教室)に所属され、分子病態口腔科学(口腔解剖学)を専攻された。 新宅 優子(大学52期)は大阪大学歯学部附属病院で研修後、平成17年(2005)大阪大学大学院歯学研究科に入学された。 口腔分化発育情報学講座(顎顔面口腔矯正学教室)に入局し、分子病態口腔科学(顎顔面口腔矯正学)を専攻された。 柳川 恵(大学52期)は口腔分子感染制御学講座(小児歯科学教室)に入局された。 大山口 藍子(大学52期)は大阪大学附属病院で研修医を終了後、高次脳口腔機能学講座(歯科麻酔学教室)に入局され、医員を経て、平成19年(2007)大阪大学大学院歯学研究科に入学され、顎口腔先端麻酔学を専攻された。 平成17年(2005)富田 世紀(大学53期)は大阪大学大学院歯学研究科に入学された。 口腔分化発育情報学講座(歯科放射線学教室)に所属され、分子病態口腔科学(顎口腔先端放射線学)を専攻された。 同期の内田 昌範は大阪大学大学院歯学研究科に進学された。 顎口腔機能再建学講座(歯科補綴学第一教室)に入局され、統合機能口腔科学(顎口腔咬合学)を専攻された。  谷口 優子(大学53期)は高次脳口腔機能学講座(歯科麻酔学教室)に入局された。 同期の徳田 信吾は顎口腔病因病態制御学講座(口腔外科学第二教室)に入局された。 重永(志田)奈緒子(大学53期)は大阪大学附属病院で研修医を終了後、平成18年(2006)大阪大学大学院歯学研究科に入学された。 口腔分化発育情報学講座(顎顔面口腔矯正学教室)に所属され、分子病態口腔科学(顎顔面口腔矯正学)を専攻された。 平成18年(2006)辻 卓朗(大学54期)は顎口腔病因病態制御学講座(口腔外科学第一教室)に入局研修された。 同期の東江 正裕は大阪大学歯学部附属病院で1年間臨床研修医をされた後に、 平成19年(2007)大阪大学大学院歯学研究科に入学された。 口腔分子免疫制御学講座(予防歯科学教室)に入局され、分子病態口腔科学(予防歯科学)を専攻された。 調査を終えた平成20年(2008)には大阪大学大学院歯学研究科の研究発表会で前述した新宅 優子、内田 昌範、富田 世紀の九州歯科大学出身者が3名も同時に学位を申請するという嬉しい事態が招来した。

 本論では昭和4年(1929)から平成18年(2006)までの78年にわたる九州歯科大学と大阪大学歯学部の人物往来史が述べられた。 両大学が長期にわたって信頼される歯科医師達を育成してきた事に敬意を表すると共に、 私達が両大学で学べたことに感謝し、今後のさらなる歴史の積み重ねを祈念して本稿を閉じることにする。

謝辞
 調査にご協力いただいた九州歯科大学同窓会近畿・北陸地区連合会の会員の皆様に厚く御礼を申し上げます。 また多くの貴重なご助言をいただいた九州歯科大学口腔組織機能解析学講座教授豊島 邦昭先生と大阪大学大学院歯学研究科高次脳口腔機能学講座(歯科麻酔学教室)教授丹羽 均先生ならびに口腔分化発育情報学講座(口腔解剖学第一教室)教授脇坂 聡先生に心より謝意を表します。

参考文献
1)大阪大学歯学部十周年記念誌編集委員会:大阪大学歯学部十周年記念誌.1960.
2)九州歯科大学五十年史編史委員会:九州歯科大学五十年史.1967.
3)川勝 賢作:私の歩んだ口腔外科40年の喜び.歯界展望:50、2、1977.
4)大阪大学歯学部同窓会:大阪大学歯学部同窓会記念会館完成記念誌.1983.
5)九州歯科大学同窓会八十年史編纂臨時委員会:九州歯科大学同窓会八十年史.2007.
6)嶋村 昭辰:私の創設期九州歯科大学史とくに、大学創立記念日を中心に.九州歯科大学同窓会報:72、53-59.2007. 

  

濱田傑先生の新聞記事


近畿大学医学部教授 濱田傑先生(九州歯科大学26期卒業)の記事が新聞に掲載されました!国内初の快挙は正に「目には目を」ではなくて「目には歯を」ですね。

ラグビー部OB便り


ラグビー部OB 米山和伸(東京都同窓会・23期)

【感激のオールデンタル優勝】

昨年12月30日埼玉県熊谷市の熊谷ラグビー場で、オールデンタルのラグビー部門において、我が九州歯科大学ラグビー部(部長山口和憲矯正学教授)の後輩諸君は宿敵大阪歯科大学を22-15で破り、見事優勝を果たしてくれました。
関東を中心に大勢のOBが応援に駆けつけ、学生諸君達と勝利の祝杯を挙げることができました。



電光掲示板付きの熊谷ラグビー場



ラインアウトを支配した黄・黒ジャージー



決まった前半最後のトライ



勝利を決めたキャプテン川波のトライ



勝った! 宿敵大歯大に22-15



感激のキャプテンの胴上げ



マネージャーの苦労も報われた



歓喜の全員集合


【還暦過ぎてもラグビーを】

卒業後間もなく33年になろうとしています。そろそろ止めたらという周りの忠告も無視し、ラグビー部関東OB会(関東一円約35名のOBの集まり。現役のカンパや試合遠征等で結束している)の一員として、大阪歯科大学や日大歯学部のOBチーム、千葉の40歳以上のチーム等を相手に年2回程度のラグビーを楽しんでいます。この3月には還暦を迎え、赤パンツに変わります。還暦まではラグビーと思っていましたが、もう少し続けさせて下さい。



関東OB会の雄姿

憧れの花園ラグビー場で(2006,4,29)2列目右から3人目が筆者



大阪歯科大学とのOB戦で(2008,4,29)



関東OB会員のデンタル祝勝会(2009,2,7新宿にて)
 大阪府同窓会のメーリングリストにコンタクトして来られた東京都同窓会の米山和伸先生(大23期)に、大阪府同窓会のホームページへの投稿を依頼しましたところ、快く新年会の様子を送って来て下さいました。大変楽しい雰囲気がそのまま伝わってくる写真と共にありがとうございました。厚く御礼申し上げます。

東京都同窓会だより

                東京都同窓会 米山和伸(大23期)
                  

【2009年新年会賑々しく開催される】

 恒例の東京都同窓会(齋田宗生会長・大17期、会員125名)の新年会が、1月24日(土)賑やかに開催されました。会員家族、スタッフも含め参加者100名以上と、これ迄最高人数と思われる盛況な会でした。グランドヒル市ヶ谷のパーティー会場は老若男女でびっしり。不況感漂う中でも明るい新年のスタートが切られました。

  円山義信副会長 (大18期)、假屋隆彦先生(大36期)、梅田健一郎先生(42期)、
飛び入りの荒木大輔先生(大51期)らで編成されるジャズバンド=デンチャーズのウェルカム演奏の下に、白橋知幸専務(大25期)の司会で開会。

 齋田会長の挨拶、ゲストの関東地区連合会(大庭靖士会長・神奈川県・大12期)始め各都県会長の紹介、東京都同窓会の6ブロック長の紹介の後祝宴へ。

 アトラクションのトップバッターは秀徳 寛先生(大学16期)とお嬢様によるファミリーコンサート(演奏して、写真撮影して戴いてしかも当日会費まで取られるという理不尽にもめげず毎年のご出演)に始まり、次は、神奈川県から特別参加の林 譲治先生(大37期)のピアノ弾き語り。一度彼の歌を聴いてみて下さい、あの高い声の出し方は間違いなく顎関節症。トリはプロのジャズシンガー、今売り出し中若手美人No2菊地真紀さんのヴォーカルで、デンチャーズの演奏と見事なコラボレーション。この頃になると会費の元を取ろうと飲み食べまくりの人も多数。

 さて会のメインイベントは九代目桂 文楽師匠の絶妙な司会・進行による「大ビンゴ大会」。文楽師匠には播磨利彦監事(大15期)を通して30年以上もお付き合い戴いています。このビン大会は賞品が半端ではなく、時には血の雨も降るという激しさ。今年の目玉はノートパソコンと液晶ビデオ。さらに子供だけの「子供ビンゴ」で、大人の世界を子供だけで満喫。特賞のラジコンの空飛ぶドラエモンをゲットできなかった少年の悔し涙は、まさに負けた勝負師のマジの姿!

 特筆すべきは93歳の荒井敏夫先生(専門18期)。この大先輩現役歯科医師で、電動注射針等発明多数。超お元気で、この夜も「ロデオボーイ」を獲得し、早速自宅で乗られたと想像します。ロデオボーイの乗り心地を確かめて特殊歯科用チェアーに改造されるのでしょうか。

 最後は蒔田 裕先生(大32期)指揮下での校歌斉唱と田原昌宣先生(大51期)のエールで見事な締めとなりました。それにしても約100人のスクラムを組んでの校歌は圧巻でした。皆様一度ビンゴに遊びにお越し下さい(カード1枚500円は安いよ)。

賑やかな東京都同窓会の開会。乾杯の発声は93歳の現役歯科医荒井敏夫大先輩(専18期)

30年以上ものお付き合いの九代目桂 文楽師匠
豪華な食事に皆さん大満足

デンチャーズの生バンドをバックに歌う美人ジャズヴォーカルの菊地真紀

文楽師匠の絶妙な司会進行による大ビンゴ大会。子供だけのビンゴに親も
必死
豪華賞品ゲットのためには1枚500円のカードを多く買った者の勝ち!
ビンゴの賞品を渡す齋田宗生会長(右、大17期)
100人スクラムでの校歌斉唱は迫力満点


「座間味島の池 徹先生(大学14期)訪問」

                    山本克彦(大学19期)


 平成20年6月27日沖縄県座間味島の池 徹 先生(大学14期)にお会いしました。 池先生は私より先輩の諸兄はどなたでもご存知の有名な池兄弟のお一人です。 九州歯科大学大学院の一期生で第一口腔外科学講座に在籍されていました。 大学院終了後名古屋大学医学部の講師を経て、茨木市で開業され、その間大阪府同窓会で21年にわたり楽しく接していただきました。 8年前に沖縄県座間味村に移られ、離島の歯科医師として活躍されています。 座間味島での生活振りは本ホームページ上ですでに紹介されています。 

 座間味島は大小20あまりの島々からなる慶良間諸島の有人島の一つで、沖縄本島から南西約40kmに位置し、那覇の泊港から高速船で50分、フェリーで2時間かかります。 世界でも有数の"ケラマブルー"と呼ばれる色の透き通った海と珊瑚礁やカラフルな魚群達に恵まれています。



池先生お勧めの高月山展望台からの座間味村集落の一望

 慶良間諸島海域は2005年ラムサール条約に登録され、 ダイビングとホエール・ウォッチングのポイントやここにしか生息しない固有のケラマジカなどで有名です。 また1988年の安田成美主演の映画「マリリンに逢いたい」の舞台にもなりました。 これは実話で阿嘉島に住む「シロ」が3km離れた座間味島にいる「マリリン」に恋をして、泳いで逢いに行っていたという純愛物語です。 マリリンと愛を語らった後阿嘉島に帰る時はフェリー乗り場に現われ、無賃乗船を繰り返していたそうです。 フェリーに乗り遅れた時は役所に勤めている方がマイシップで阿嘉島に帰るのを知っていてその方が仕事が終わるのを待っていたそうです。 頑張ったシロの恋は成就され、二人(匹)の間には、子供もでき、子孫たちがいまでも生きているそうです。 


映画「マリリンに逢いたい」のマリリンの銅像。 阿嘉島の港には
シロの銅像があります。


 報道にありましたように、大江健三郎の「沖縄ノート」で沖縄戦で住民に集団自決を命じた、命じないと裁判になっていたのは、この慶良間諸島の座間味島と渡嘉敷島でのことです。 悲しい歴史がこの島にあったとは思えないほどの素晴らしい自然環境に平和の大切さを感じとることができました。 

 池先生の座間味歯科クリニックは座間味村役場の隣で座間味港から徒歩数分の小さな小さな診療所です。 お伺いした時ちょうど根管治療をされていました。 困難な大手術もこなしていた先生がお人柄そのままに丁寧に親切に対応されていました。 大阪では得意の語学を生かして海外留学関係で活躍されていた奥様が診療を手伝っておられました。 休日は磯釣りや自宅前のビーチで泳がれるそうです。 島の様々な行事への参加が多くて忙しい生活だそうです。 島をガイドしてくれた方が島民全員が池先生のことを知っているし、よくしていただき感謝していますよと話しておられたのが印象的でした。 離島で孤軍奮闘されている池先生ご夫婦のますますのご活躍をお祈りいたします。 時に私のように突然訪ねてくる人たちもいるそうです。 機会があれば是非座間味島の池先生をご訪問されることをお勧めいたします。 とても嬉しい気持ちになれますよ。   

池先生ご夫婦と私。 池先生はアロハで診療です。 

ドクター長崎の入院 長崎三男(大学29期)

 「う~、いたいっ」家族旅行の最中だった。突然夜中の激痛、それは言葉では言い表すことができないくらいの痛み。いちびって車中で子供とお菓子をたくさん食べるんじゃなかった。もしかしてこのまま入院するんじゃないか?こんなことならもっと遊んでおくんだった。ミナミやキタで豪遊しとけばよかった。(多分できないだろうけど。)色々な邪念が脳裏をよこぎった。そんなことを考えているうち朝方になり、徐々に痛みがやわらぎ「う~ん・・やっぱりとらなあかんのかなぁ」そう思いながら家族旅行の帰路についたのでした。

 「先生~、え~かげんとったほうがええんちゃいますん~?」我が医院の衛生士、益田が言う。「こいつは、体力と食欲だけは人並みはずれとるからなぁ、入院なんかしたことないから入院+手術のつらさがわからんのや」なんて思っていると「先生、となり予約してきましたよ」といってきた。こういう時は人一倍早い!となりとは「石田クリニック」のこと。最近、(といっても3年前)開院した内科の先生だ。「そうやなぁ、となりと顔みしりになってロータリー勧誘しなあかんしなぁ」と不安半分、期待半分の中受診したのでした。

 「はい。12月中にオペをしましょう!そうですね、25日は僕が執刀できるので、25日にしましょう!」
なんでこんなにトントン拍子にことがすすむねん、お父ちゃんはまだ心の準備ができてないのよ。そりゃあ、胆石とったら大好きなチョコを思いっきり食べれるし、ウィスキーもロックで飲めるやないか、ホステスにえーとこみせれるし(なにがやねん)しゃ~けどお腹にメスをいれるんやぞぉ~、いたいやないか、こうみえてもびびりやねんぞぉ、歯を抜くのは平気やけど・・・。と思っていたら

 '腹腔鏡手術でいきます;「よかった(^^;)」
12月22日入院、「若い看護士と仲良くできるかもしれない(^ⅴ^)」という期待は一瞬で打ち砕かれた。
「長崎さん、ちゃんと6時にはもどってきてくださいね」はいはい、大きい病院にはおばはんしかおらんわ。
24日今宵ひとときのイブを家族と過ごし早々と病院に戻ったのでした。

25日手術当日
1時間予定が3時間位かかりましたが大成功。どんな感じか書こうにも意識無し、麻酔即効果あり。
術後、意識はありますがボーっとした感じ。「長崎さ~ん、わかりますか~?お部屋かえってきましたよ~。」看護士の声はきこえますがまだはっきり覚醒せず。この状態の時によくへんなことをくちばしってよめはんに不信感をいだかれるというけど、「よかった、なんにもなくて、ホッ。」
「先生~、へんなことくちばしらなくてよかったですねぇ。」と益田がにやり。アホ、いらんこというな。
術後1日でほぼ快復状態。執刀医、松田宙先生。奥さんが歯科医だそうです。
お世話になりました。感謝します。

 「胆石をとりたい、とりたい」と思いながら10年位もちつづけてきました。今回僕自身初入院、初手術を体験することにより患者さんの不安、痛み、またドクターへの期待、信頼を再認識することができました。これを機会に、医者としてさらに患者さんの身を第一に考え精進していきたいとおもいます。
これでわたしの入院記を終わります。ご静聴ありがとうございました。

 「これでおもいっきりチョコがたべれるぞ~酒がのめるぞ~」
                    おしまい 長崎三男(^^)ⅴ

(平成19年4月寄稿)

大阪府同窓会は心のふるさとでございます 楠原光珍(大学34期)

 九州歯科大学大阪府同窓会 70周年おめでとうございます。私、大学34期生の「くすはら こういち」が遠く海を隔てたカナダより謹んでお祝い申し上げます。

 多くの来賓の方々からの祝福に華やいだ宴の中での70周年記念のこととお慶びします。本当に華やいだ宴のなかでの事と存じます。

現在、当地時間9月29日夜11時半、私、現在この原稿を台所のテーブルの上で書いております。カナダの家には蛍光灯が少なく、この台所は裸電球を幾つか混ぜ合わせたような電灯で、日本の昔の深夜の病院を連想させてくれます。横にはワインの空瓶と湿った「かっぱえびせん」もどき・・・
それなりに華やかでございます。

(エヘンッ)私事ではありますが、本年は私のカナダ移住7周年でございます。大阪府同窓会の70周年、私の7周年。はい、何の関わりもございません。承知いたしております。いえっ、なにも諸先生方から何のお祝いを頂戴しようなどと思っているわけでもございません。ただ、ただ感慨深いだけでございます。
あ~~、うらやましい。コンパニオンの方もおられるのかしら?
おひとかたで結構でございますので、私のほうにも・・・

 さて、大阪でございます。多くの先生方がうら若き時代に母校九歯大に入学し、6年間、或いは7年間、はたまた8年、9年間の小倉での学生生活を送り、身も心もケガレ果てた後に、もといっ、心身ともに成長されたのちに、大阪での歯科医師生活を始められたわけです。そして、大阪府同窓会が設立されて70年・・・

 ベテランの先生方、ご苦労様でした。もう20年も前にもなりますが、私なぞが卒後、故郷大阪に戻り、働かせていただくにあたって、この大阪府同窓会の存在をいかに頼もしく感じたことか、今もって筆舌に尽くしがたい思いがございます。燦燦と注ぐお天道様の光の下、肌着一枚、裸一貫で国民健康のために働かれてきた先生方の御姿が想像され感極まるものがございます。

 現在、同窓会の中心を担っておられる先生方、ご苦労様でございます。お天道様が傾き始め、それでもなお夕日の美しい光景の中、半袖のシャツにサングラススタイルでの先生方の身を粉にしてのご尽力のお陰で、若い先生方、或いは新しく大阪での歯科医師生活を始められた先生方が安心して技術の研鑽とともに人格の向上にも精魂を尽くすことの出来る環境ここにあり、と理解し、常に尊敬しておる次第でございます。

 これからの歯科界、同窓会を背負っていかれる若い先生方、ご苦労様でございます。お天道様もトップリと暮れてしまい、ここはカナダか?と思わせるような強く冷たい風が吹きすさぶ今日この頃、
♪ く~も~り~ガラスを 手~で ふ~ぃ~て~♪
 ♪ あな~た~ 明日が~ ♪ み~えまぁす~か~♪
先生方、見えます。見えますとも。カナダでも、厳しい冬のあとにはチューリップも咲きます。桜も咲きます。きっと素晴らしい明日がきますとも・・・

 これからの季節、肌着一枚、半袖一枚では寒いでしょうから十分暖かくしながら、母校九歯大の栄光、伝統を背負いながらの国民健康に長きにわたるご貢献、ご活躍を祈念しております。

 さても、またしても大阪でございます。

 私は大阪で生まれた男やさかい~♪ 大阪が大好きでございます。大阪を離れて早7年、私は、飛行機を利用するときには、可能な限り伊丹空港を利用するようにしております。空港に行くまでの行程を楽しみたいからでございます。

 大阪でございます。

 関空特急などを使いますと、まぁたしかに無残な「りんくうパパラ」跡などが目に入ってくるわけでございますが、これは昨今のアホな行政のさせる業でございまして、大阪本来の色と申し上げるわけにはいかないわけでございます。

 その点、空港バスなどで伊丹へ向かいますと、その際の眺めが、これが大阪ですばらしいわけでございます。 新幹線の軌道を超えますと、右にも左にも怪しげな、あるいは爽やかなラブホ、いえ、ファッションホテル、あるいはブティックホテルの看板も目に入ってきます。かつての「○○御苑」というような、野暮な名前はもうございません。
「さかさくらげ」なんて言葉はもう死語でございましょう。
「○○ピエロ」「おひるね○○」なんて、老若男女多くの方々に開放を訴えているような名前も実にナイスです。カナダにもそんな場所が欲しいものです。私ごときも現役に戻れるかも知れぬ、などと一人瞑想に耽るわけでございます。

 さて、そうかと思えば、そのすぐ後に王将のギョウザ、チチヤスのヨーグルト、はたまた工場の煙突、スポーツ新聞社、目の周りでは割り込み、追い越しを狙っているヤンキーの兄ちゃん、ネェちゃんがたくさんおられます。まさしく、カオス、ケイオス!混沌でございます。これぞ大阪といわざるを得ません。
カナダの日本のガイドブックには決してこういう大阪らしい味を紹介するものはございません。大阪が恋しゅうございます。

 大阪でございます。

 プロ野球セントラルリーグ・ペナントレース。29日現在、阪神タイガースの最後の頑張りに目頭を熱くしているのは決して私だけであるまい、とお察ししております。有事の際、いえっ、もしもの喜びの際には、あの柵なんてなんのその、むしろ飛び込んだ後に上がりやすくしてくれた、あの川辺の遊歩道のおかげで、著しく熱く狂った・・・もといっ、熱狂的なファンがまたしても飛び込み、街中を文字通り熱くしてくれること請け合いでございます。まさしく、カオス、ケイオス!混沌でございます。

 ホットなニュースがまたしてもカナダに流れてくること間違いございません。
前回は、カナダはトロントでも数多くの熱い男たちが寒い川にダイブしておりました。日本のダイブともども、テレビ放送され、青い目の綺麗なキャスターのねぇちゃんがWow!!なんて言っておりました。

 大阪が恋しゅうございます。

 なんだかんだと、アホなことを並べてまいりましたが、やはり大阪が恋しゅうございます。とりわけ、私にとっては母校 九州歯科大学大阪府同窓会は心のふるさとでございます。そう言えば、数年前に講演会に呼んでいただいたことがありました。
「うん、くすはら君、よかったよ。次回もきっと呼ぶから是非来てくれたまえ。」
もう4年も前の事でございます。一向にお呼びはございません。
寂しゅうございます。まるで、時が止まっているかのようでございます。

 と、思い出に耽っておりましたところ、掛け時計に目をやれば時刻は午前零時を過ぎました。冗談もほどほどにせねばなりません。またいつの日にか、諸先生方とご一緒に歓談の機会が訪れることを願いながら、遠く離れたカナダはバンクーバーより、 九州歯科大学大阪府同窓会70周年を心からお祝いしつつ
布団の中にもぐりこみます。

 九州歯科大 バンザイ!

 34期 くすはら でございました。

(平成18年9月 寄稿)

座間味からの近況報告 池 徹(大学14期)

 この度は同窓会創立70周年おめでとうございます。同窓会の皆様、お元気にお過ごしでしょうか?21年間皆様と一緒に伝統ある同窓会に在籍できた事を誇りに思っております。

 大阪を離れてからあっという間に6年半が過ぎようとしていますが、今沖縄の離島に住んでいます。島の名前は座間味島といいます。ダイビングとホエールウォッチングで名を知られた島です。座間味島について、又そこでどの様に過ごしているかをご報告したいと思います。

 座間味島は沖縄本島那覇から南西へ約40kmに浮かぶ大小10余りの島々から成る座間味村の一部で、三つの有人島(座間味・阿嘉・慶留間島)の中で一番大きな島です。那覇の泊港から高速船で50分、フェリーで2時間、小さな飛行機で15分かかります。座間味村は私が歯科医院を開設するまでは無歯科医村でした。昭和35年頃より巡回歯科診療班が派遣されるようになってからずっと1年に1度1ヶ月間の診療をしていました。沖縄全体では8箇所で巡回歯科診療が行われていた様です。座間味村は小生の診療所開設で無歯科医村を解消したことになりますが、未だに沖縄県では2離島で巡回歯科診療が継続されています。

 座間味村は夏のダイビングと冬場のホエールウォッチングを主たる産業と位置付けている観光立村です。年間約9万人弱の観光客が訪れます。農業は農協が無く個人で家族親戚のために栽培している状態です。ただその中で近年「インカのめざめ」の名前で栽培されているジャガイモが人気を得ています。そのうちに座間味産のジャガイモとしてブランド化される日も間近でしょう。

 座間味周辺の海域は透明度40mを誇る美しい珊瑚礁に囲まれています。そのためダイビングやシュノーケルにシーカヤックが盛んに行われています。沖縄中のダイビングショップのうち、半数以上の40数軒ものショップが座間味村に存在します。

 宿泊施設は本島のようなリゾートホテルはありませんが、3島を合わせるとホテル形式の3軒を含めて民宿が70軒近くあります。島には展望台が5箇所あり島全体の海岸線を見ることが出来ます。中でも座間味地区を見下ろせる高月山と阿真地区を見渡せる神の浜展望台がお勧めです。冬場のホエールウォッチングの時期になると、北側の稲崎展望台から沖合いに現れるザトウクジラを監視してホエールウォッチング船にクジラの位置を知らせるシステムが出来上がっています。そのため那覇から出かけてくると船と違い座間味島から出る船ではほぼ100%クジラに出合うことが出来ます。海面に飛び出すブリーチ、船の下を通過するパフォーマンスはその時のクジラのご機嫌次第ですが、うまくいけばそのような幸運に恵まれることが出来るでしょう。

 ダイビングのスポットは約40を超える上に島全体が入り組んだ地形をしているため、北風が吹いても南風が吹いても更に東西どちらの風向きでも潜れる場所があるといわれています。台風の時以外は一年中ダイビングが出来ます。

 さて診療に関してですが、診療時間は9時から12時まで、2時間休憩して2時から5時までの一日6時間で、冬場でも日没前に診療を終えるようにしています。休日は日曜と水曜で土曜日は昼から休みです。休日は天気の良い日には近場のビーチから磯釣りを楽しんでいます。インターラインロッドの釣り竿に浮きを付け、ステンレスの沖アミ用の籠を仕掛けて、磯からの投げ釣りを楽しんでいます。主にエーグヮー(アイゴ)、イラプチャー、時には大物のガーラが釣れ、釣れた魚はその晩の刺身になります。自宅前にベンチを作っていただいたので、その場所が近所の方達とのゆんたく(おしゃべり)の場になります。夜遅く12時近くまで続くことも珍しくありません。

4月初めの海開きから10月の初めまでは泳ぐことが出来ますので、診療が終わってからでも村営住宅の自宅から直ぐそばのビーチで汗を流しています。今年は例年になく泳ぐ時間があり、9月初めに参加した水泳部のOB会では卒業してからの記録としては最高のタイムを出しました。

 女房とふたり共、最初は島での生活はとても退屈で時間を弄ぶのではと思っていましたが、島の様々な行事や学校の運動会、海神祭、敬老会、座間味まつり、成人式、生年合同祝い等数えればきりが無いほどで、ほとんど全てに参加して忙しい生活を送っています。女房は村の教育委員会による英会話教室の講師として、座間味島だけでなく隣の阿嘉島まで出かけています。又、婦人会の一員として色んなイベントの折に近所のご婦人達と一緒に余興に出たり、コーラスのグループやハワイアンフラにも参加して忙しい限りです。

 そんな楽しい生活を過ごしているのですが、こと本業の方はというと、心もとない日々です。座間味島の人口677人では十分な収入をあげることが出来ないと最初からわかっていたとは言え、8月の総点数が25000点という現実を見るにつけ毎日これからどの様になっていくのか、不安を隠せないのが実情です。それでも、前の晩は眠れない程痛んで顔を腫らして来院した患者さんが、「本当に楽になりました」とお礼を言って帰っていく姿を見ていると、苦しくともこの座間味島に居る意味があるのかな、と思ったりしています。

 離島の医療過疎の状態は。小児科と産婦人科等の問題は新聞やマスコミでも大きく取り上げられていますが、こと歯科については一言もでてきません。何故、離島や過疎地での歯科の問題が表に出てこないのか不思議です。座間味島では孤軍奮闘していますが、人口のすくない地域を個人の歯科医が支えて行くには荷が重過ぎる気がします。いつまで持ちこたえることが出来るかわかりませんが、精一杯頑張っていくつもりです。

 先日、村議会の議員選挙が行われ、リンカーンフォーラムの支援のもとに、全国で一番人口の少ない地域での公開討論会が初めて開かれて、新しく選出された議員の中に新人3人が当選しました。これから益々厳しい状況に置かれる離島ですが、この先にはほのかな明かりが見えてきたのかなと、希望を持った次第です。

 青い青い珊瑚礁との海と満点の星空!。。。。。座間味には台風さえ来なければ最高の島だと皆が言っています。皆様、ぜひ一度遊びに来てください。

 〒901-3403 沖縄県島尻郡座間味村阿真532-1 池 徹

(平成18年9月 寄稿

切符紛失不安症 青木修一(大学29期)

 電車から降りようとして切符がどこにいったかわからなくなることはありませんか?私は必ずと言っていいほどどこにいったかわからなくなる癖があり、そのつどパニックに陥ります。

 8月の暑い日のこと南港のインテックス大阪であったデンタルショーからの帰り、難波から地下鉄に乗ったときのことでした。折からの猛暑、額から汗をながしてやれやれとすわった脳裏にかすかな不安がよぎりました。「ひょっとしたらまた切符を紛失したのはないのか?」その日は悪い条件が揃ってました。①例年になく暑く頭がボーとしていたこと。②デンタルショーで意地汚くもらってきた試供品で紙バッグが破れそうなほど重かったので疲れてたこと。38万8000円もする光重合器を柄にもなく注文して興奮していたこと。(50になろうとするおっさんが情けない)

 改札口の前でいかにも切符がみつかりませんという風で探すのはいやなものだ。難波から梅田につくまでの地下鉄のなかで切符のあるのを確認して、余裕をもって自動改札にむかいたいと思ったので、財布の中から探しはじめた。似たような紙切れがあって一瞬喜んだが5枚たまると缶コーヒーがもらえる券だった。ポケットに手を入れて愕然とした。左右とも500円大の穴があいていた。あわててもう一度財布を探す。ポケットに手をいれる。あるはずがない。前の席の茶髪の若い女性がこちらの振る舞いがおかしいのか笑いをこらえている。(ような気がする。)

 切符をなくした乗客はアリバイのない無実の容疑者に似ている。乗車券をかったことを証明してくれる人がいない。このままでは無賃乗車の罪を着せられ、始発駅から終着駅までの3倍払わされるかもしれない。最駅長室に連れていかれ、そのまま曽根崎署の留置所にぶち込まれ、歯科医師免許を取り上げられる事態になりかねない。230円の切符のせいで家族を路頭に迷わすわけにはいかない。

 耳たぶに手をやる。(以前切符紛失防止に耳の穴に切符を丸めていれていた時期があった。が自動改札になってから切符を丸めると通らなくなってやめた。)「これだけ探してもないのだから改札口で事情をいって勘弁してもらおう。」と決心した。「デンタルショーで試供品をもらったくらいでは赤字やがな。」この期におよんでも、けちなことを考えている。

 いろんな思いが交錯するなか淀屋橋から梅田に着いた。暗い気持ちで腰を上げると座席に切符が落ちていた。尻に轢いていたのだった。少しほっとして小さい切符を握り締め自動改札口に急いだ。

 同窓生の皆さん、受診抑制の続く昨今、切符をなくしても患者さんからの信頼はなくさないようにしましょう。(落ちの着け方が少し強引だったかな。)

(九州歯科大学同窓会近畿北陸地区だより 平成14年1月31日発行掲載)

平山 稔先生を偲んで 堀之内藤彦(県立5回)

 平成16年1月14日、大先輩平山稔先生が御逝去されました。86歳でした。古き時代から現代を知る先生が又一人少なくなりました。先生を失った事は痛恨の極みで惜別の情に耐えません。あの殺しても死なないと思われるような頑健な体の先生もガンには勝てませんでした。平成15年1月の新年会に「君が行くなら行きたい」とお電話を頂きまだお元気そうでしたが、足腰は大部衰えを感じました。新年会で乾杯の発声をされたのが最後となりました。平成8年9月発行大阪広報2号に投稿された「80才を考える」の中で検査の結果、膀胱にポリープを発見と記されてましたが、前立腺の手術の後も全身に転移したのでしょう。先生は博学で趣味も広く、演歌も上手で黒田節、無法松の一生等が十八番でした。スポーツは万能で各種の表彰を受けられ、昭和41年10月に体育功労の文部大臣表彰を受けられました。今では各界、大臣表彰は余り気にも留まりませんが、当時は祝典もありました。

 先生は鹿児島県出身で、昭和11年台北州立方一中学校卒、昭和16年3月九州歯科医学専学校卒、昭和17年1月軍隊入隊、昭和25年豊中市服部に歯科医院開設、昭和25年国立刀根山病院勤務、昭和45年4月病院退職、歯科医院専念、昭和35年医学博士(九州大学)授与、が略歴です。

 先生はいつもユーモアで周りの者を笑いの渦に巻き込んで、お酒が入ると女性の話題が出始めると台湾や韓国での話題がお得意でした。反面、同窓の事では何でも知っており、何でもやらねば気の済まない方で、中心的でなければならないとも見えました。昼頃電話で「オイ、堀之内、今夜7時から家で役員会をやるから中村にもそう言ってくれ」とか「大学の教授が大阪歯科大学に来るから明日伊丹に行って案内してくれ、夜は梅田で食事するから」こんなことは度々の事で、唯今の役員さんには考えられない事だと思います。後に古庄先生も役員に入って来られた。色々な事を経験され、昔と現代の違いを知って頂けると思います。役員会の後は豊中からの帰り道、阪急の十三、南のアルサロ、キャバレーに同行しました。先生には素晴らしい無形の財産と感銘を与えて頂きました。

 近畿北陸連合会会長には生甲斐を感じておられてようで、ご挨拶の初めには必ずジェーン台風等で被害を受けた同窓をお助けするために、云々と云って居られました。先生は永年同窓会本部の副会長に就任され、木造校舎病院の改築に、又講堂の新築等には努力され、支部では吾々数少ない役員が寄付金を集めに叱咤激励されながら、各先輩の先生方を訪問して寄付金集めに廻りました。平山稔先生は、何事も一生懸命で滋味に溢れ、何でも相談に応じて下さいましたが、何処迄も突き進んで行く九州人としての生き方が反対、不満な御意見をお持ちの先輩の先生の中には多数あったのも事実で、現在でもそう云っておられる先輩もあります。

 色々書いて平山先生の追悼文にならなかったかも知れませんが、50年来のお付き合いので思い出した事を書きました。昨年10月九歯大同窓会沿革史編纂の原稿取材に豊中服部の御自宅に行きましたが資料は全然無く、少し物忘れも出て、歩けないとも云っておられました。

 10月28日先生からお電話を頂いて、11月4日に豊中市民病院に入院、レントゲン検査の結果次第では、1ヶ月位入院するだろうとの事で、これが最後のお声でした。12月30日に電話してみましたら奥さんから、食道ガンで何も食べられずアイスクリームを食べていると聞きました。あれから半月後に亡くなられました。先生にお二人の御子息が先生の御遺徳を受けられ、先生を追い越す程に成長され、御長男は、いつも先生の自慢の種でした。薬効奏せず帰らぬ人となられました稔先生の御冥福と御遺族の御多幸をお祈りして追悼の辞と致します。 合掌

 平成16年9月25日

(九歯大大阪広報 第4号 平成16年10月28日発行掲載)