戦後70年前後を振りかえって
県3期 本田 光徳
戦後70年と騒がれているが、3年8か月の太平洋戦争後半の昭和18年から終戦の8月までと、その後の2年ぐらいの間に、私自身や私共は今日の人生を左右する大きな経験をし、そして味わってきた事などを語りたいと思います。
昭和18年(1943年)に入学した頃は戦況が次第に悪化してきたので、夏休みを返上して、福岡県築上郡築城町に航空隊基地があって、米軍の爆撃から守るため、高い土手を造る作業に出動したのである。宿泊は数棟の兵舎にそれぞれ分かれていた。級友は福岡県出身が多く、次いで九州各県、その他は東は茨城、石川、名古屋、そして関西、広島などで、その他台湾から4名の留学生がいた。勿論その頃はカラオケなどはなく、浪花節が得意なT君の広沢虎造ばりの名調子に耳を傾けながら、毎夜を友と語り合い過ごしたのであった。ここでお互いに堅い友情が結ばれたと思う。
昭和19年には食糧増産という名目で、築城町や吉井町の農家にそれぞれ分かれて泊まり込んで、暗渠排水の溝を作る作業に行ったこともあり、そこで白米を腹一杯食べさして貰った嬉しい楽しみもあったりしたのである。この年医学科を併設して、福岡県立医学歯学専門学校となった。
昭和20年には警戒警報が発令されると、記念病院や避難場所となっていた小学校に当番制で詰めると云うこともあった。ある夜、三萩野に爆弾が落とされて、死傷者が運ばれて来た時は驚きと恐怖で、慌てて立ちすくんだことを記憶している。
この頃である。出征する先輩を送別会後、学校の前の広い道路を横一列で歓声をあげながら、歩いていたことがあって、翌日憲兵隊に呼び出されて、こっぴどく油をしぼられるということもあったりした。
ある日、大門近くにあったO君の下宿を訪ねていた時、特高(今の公安)が突如踏み込んできて、別室の或る人を連行していったことがあった。その彼の部屋にマルクスの共産党宣言なる書があったことは知っていたが、その頃は全く無知で何も分からなかったが、これが後述の事柄に関連してくるとのことであった。
8月の上旬、4年生は当時、3年半の繰り上げ卒業で、我々が最高学年となり、前期試験中で、9日は八幡の製鐵工場が空襲され、母校の近くにも焼夷弾が落とされて、試験は中断し消火活動となった。そしてラジオでは私にとって重大な運命となる放送が流されていたのである。「長崎に新型爆弾が投下されたが、被害は不明」と。
10,11日と試験はあったが、長崎市から来ていた5人は急遽夜行列車で帰ることとなった。12日の昼頃、やっと長崎の浦上駅に着いた時は、一面の原子野であった。S君と私は近所で、爆心地より500米であったので、家族を失うということとなった。小倉に復帰したのは9月の上旬で、そこで追試験を受けると云う次第になった。
戦時中、いろいろと耐え忍んで生活してきた我々にも、当時の世相と同様に、戦中のスパルタ的教育に反発してか、なんと一部のリーダーによって講義の放棄を提起され、3年生だけが昭和町の近くの小高い丘に集まり、T教授と二、三の教師に退任を求めたのである。恐らく戦後では初めての学生、生徒による学業ボイコットであったと思う。この件は前述の大門の人が係わり合ったと聞いたが、詳しくは不明で、しかし要求は通った。
昭和20年からは、いわゆる外地からの復員が始まった。そこでK君そしてもう一人(氏名を思い出せない)の三人で、博多や舞鶴、鹿児島に上陸し、丁度門司駅に夜11時頃に列車が停車する際、ホームを駅員と手分けして走り回り、湯茶や濡れたタオルの接待を何か月か続けた。実はこれが機縁で、昭和21年12月22日の早朝に発生した南海大地震の時、私共が結成した北九州学生同盟(政治、思想とは無関係)で、小倉から遠く和歌山、新宮の地震、津浪の被害地の救援へ向かった。その交通や宿泊費などの一切を当時の国鉄がお世話してくれたのである。これは国内初のボランティアだったと私共は自負している。
前述のように昭和19年に医学科が併設され、福岡県立医学歯学専門学校となったが、昭和22年当時の占領軍の意向と教育制度の改革が行われ、医学科は廃止され、私共が卒業と同時に福岡県立歯学専門学校となった。そして第一回歯科医師国家試験が施行されるということになったのである。
何しろ初めての事なので、クラスで互選して国家試験対策委員会を立ち上げた。試験委員を依頼された各校の先生が出題した卒業試験の問題と、その先生の得意とする分野をお互いに交換することになった。勿論、医科歯科、東京歯科、日本歯科そして日大歯科で大阪歯科も。試験日が迫ってきたので、予想問題集を手刷りで、級友に配ったのである。こんな大変な苦労はあまり知られていない。国家試験が済んだら、各々帰郷してしまったからである。
学科試験(内容は忘れたが、基礎と臨床)。実習試験は(ワックスパターンしてキャストまで。そして総義歯の陶歯排列)患者で2級の局所麻酔なしでの形成をし、アマルガム充填(依頼した患者に大変なことを)。ここまでは、まあまあで、口頭試問での患者の問診と診断で、この点は未経験だったので、みんな手間取ったのである。
笑い話なのは18金の線を18金鑞で接着できるか?であった。エンピツを立てて、左に倒れたら「ツク」と。当時は銀鑞しか見たこともない時代ですからと、しておきましょう。
国家試験の発表は6月30日であったが、残念ながら第一回の合格は60%程度ではの記憶である。
私は4月、当時の大阪帝国大学医学部選科(後の阪大歯学部)の入学試験を受験し、今日までの関西生活となった次第である。
戦後70年前後の母校にからまる歴史のような物語を書きましたが、もう当時を知る人も少なくなってきているので、これにて。
本田 光徳※ 九州歯科大学大阪府同窓会(県3) 元大阪労災病院口腔外科部長
連日連夜の猛暑には何となく耐えて過ごしております。
首相の核抑止容認は的外れ
編集長から
被爆から65年を迎えた今月6日、広島市で開かれた平和記念式に、原爆を投下した米国や核保有国の仏代表らが初めて出席しました。
※昭和22年(1947)福岡県立医学歯学専門学校歯学科から最初の大阪帝国大学医学部歯科学講座選科(16回)入りで、昭和27年(1952)第一口腔外科学講座助手になり、また開設当初の口腔生理学講座にも参加され、昭和33年(1958)には講師となり、レントゲン室の新設と整備に尽力された。 昭和35年(1960)退官後は四国海部中央病院歯科医長、大阪労災病院歯科口腔外科部長として唇裂・口蓋裂の手術などで業績をあげられた。
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九州歯科大学と大阪大学歯学部 ―人物往来―
平成12年(2000)11月に九州歯科大学32期の丹羽 均先生が大阪大学大学院歯学研究科の高次脳口腔機能学講座(歯科麻酔学教室)の二代目教授に就任されました。 九州歯科大学卒業後、大阪大学歯学部で研修し、第二の母校と慕っていた私達にとって非常に感慨深いことでした。 日本の歯学界ではともに伝統校で多くの歯科医師を誕生させ、育ててまいりました。 古くから両校にはひとの交流があったのですが、その記録や報告はみられないようです。 昔のことを覚えておられる先生も少なくなり、また昨今の個人情報保護の風潮で調査が難しくなっていることから、今がその歴史を記憶に留めるいい機会と思い、文献,伝聞,私信、直接取材などの方法で調べましたので、ここに報告させていただきます。
謝辞
参考文献
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近畿大学医学部教授 濱田傑先生(九州歯科大学26期卒業)の記事が新聞に掲載されました!国内初の快挙は正に「目には目を」ではなくて「目には歯を」ですね。
ラグビー部OB 米山和伸(東京都同窓会・23期)
【感激のオールデンタル優勝】
昨年12月30日埼玉県熊谷市の熊谷ラグビー場で、オールデンタルのラグビー部門において、我が九州歯科大学ラグビー部(部長山口和憲矯正学教授)の後輩諸君は宿敵大阪歯科大学を22-15で破り、見事優勝を果たしてくれました。
関東を中心に大勢のOBが応援に駆けつけ、学生諸君達と勝利の祝杯を挙げることができました。
【還暦過ぎてもラグビーを】
卒業後間もなく33年になろうとしています。そろそろ止めたらという周りの忠告も無視し、ラグビー部関東OB会(関東一円約35名のOBの集まり。現役のカンパや試合遠征等で結束している)の一員として、大阪歯科大学や日大歯学部のOBチーム、千葉の40歳以上のチーム等を相手に年2回程度のラグビーを楽しんでいます。この3月には還暦を迎え、赤パンツに変わります。還暦まではラグビーと思っていましたが、もう少し続けさせて下さい。
大阪府同窓会のメーリングリストにコンタクトして来られた東京都同窓会の米山和伸先生(大23期)に、大阪府同窓会のホームページへの投稿を依頼しましたところ、快く新年会の様子を送って来て下さいました。大変楽しい雰囲気がそのまま伝わってくる写真と共にありがとうございました。厚く御礼申し上げます。 |
東京都同窓会だより
東京都同窓会 米山和伸(大23期)
【2009年新年会賑々しく開催される】
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山本克彦(大学19期)
慶良間諸島海域は2005年ラムサール条約に登録され、 ダイビングとホエール・ウォッチングのポイントやここにしか生息しない固有のケラマジカなどで有名です。 また1988年の安田成美主演の映画「マリリンに逢いたい」の舞台にもなりました。 これは実話で阿嘉島に住む「シロ」が3km離れた座間味島にいる「マリリン」に恋をして、泳いで逢いに行っていたという純愛物語です。 マリリンと愛を語らった後阿嘉島に帰る時はフェリー乗り場に現われ、無賃乗船を繰り返していたそうです。 フェリーに乗り遅れた時は役所に勤めている方がマイシップで阿嘉島に帰るのを知っていてその方が仕事が終わるのを待っていたそうです。 頑張ったシロの恋は成就され、二人(匹)の間には、子供もでき、子孫たちがいまでも生きているそうです。
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「う~、いたいっ」家族旅行の最中だった。突然夜中の激痛、それは言葉では言い表すことができないくらいの痛み。いちびって車中で子供とお菓子をたくさん食べるんじゃなかった。もしかしてこのまま入院するんじゃないか?こんなことならもっと遊んでおくんだった。ミナミやキタで豪遊しとけばよかった。(多分できないだろうけど。)色々な邪念が脳裏をよこぎった。そんなことを考えているうち朝方になり、徐々に痛みがやわらぎ「う~ん・・やっぱりとらなあかんのかなぁ」そう思いながら家族旅行の帰路についたのでした。
「先生~、え~かげんとったほうがええんちゃいますん~?」我が医院の衛生士、益田が言う。「こいつは、体力と食欲だけは人並みはずれとるからなぁ、入院なんかしたことないから入院+手術のつらさがわからんのや」なんて思っていると「先生、となり予約してきましたよ」といってきた。こういう時は人一倍早い!となりとは「石田クリニック」のこと。最近、(といっても3年前)開院した内科の先生だ。「そうやなぁ、となりと顔みしりになってロータリー勧誘しなあかんしなぁ」と不安半分、期待半分の中受診したのでした。
「はい。12月中にオペをしましょう!そうですね、25日は僕が執刀できるので、25日にしましょう!」
なんでこんなにトントン拍子にことがすすむねん、お父ちゃんはまだ心の準備ができてないのよ。そりゃあ、胆石とったら大好きなチョコを思いっきり食べれるし、ウィスキーもロックで飲めるやないか、ホステスにえーとこみせれるし(なにがやねん)しゃ~けどお腹にメスをいれるんやぞぉ~、いたいやないか、こうみえてもびびりやねんぞぉ、歯を抜くのは平気やけど・・・。と思っていたら
'腹腔鏡手術でいきます;「よかった(^^;)」
12月22日入院、「若い看護士と仲良くできるかもしれない(^ⅴ^)」という期待は一瞬で打ち砕かれた。
「長崎さん、ちゃんと6時にはもどってきてくださいね」はいはい、大きい病院にはおばはんしかおらんわ。
24日今宵ひとときのイブを家族と過ごし早々と病院に戻ったのでした。
25日手術当日
1時間予定が3時間位かかりましたが大成功。どんな感じか書こうにも意識無し、麻酔即効果あり。
術後、意識はありますがボーっとした感じ。「長崎さ~ん、わかりますか~?お部屋かえってきましたよ~。」看護士の声はきこえますがまだはっきり覚醒せず。この状態の時によくへんなことをくちばしってよめはんに不信感をいだかれるというけど、「よかった、なんにもなくて、ホッ。」
「先生~、へんなことくちばしらなくてよかったですねぇ。」と益田がにやり。アホ、いらんこというな。
術後1日でほぼ快復状態。執刀医、松田宙先生。奥さんが歯科医だそうです。
お世話になりました。感謝します。
「胆石をとりたい、とりたい」と思いながら10年位もちつづけてきました。今回僕自身初入院、初手術を体験することにより患者さんの不安、痛み、またドクターへの期待、信頼を再認識することができました。これを機会に、医者としてさらに患者さんの身を第一に考え精進していきたいとおもいます。
これでわたしの入院記を終わります。ご静聴ありがとうございました。
「これでおもいっきりチョコがたべれるぞ~酒がのめるぞ~」
おしまい 長崎三男(^^)ⅴ
(平成19年4月寄稿)
九州歯科大学大阪府同窓会 70周年おめでとうございます。私、大学34期生の「くすはら こういち」が遠く海を隔てたカナダより謹んでお祝い申し上げます。
多くの来賓の方々からの祝福に華やいだ宴の中での70周年記念のこととお慶びします。本当に華やいだ宴のなかでの事と存じます。
現在、当地時間9月29日夜11時半、私、現在この原稿を台所のテーブルの上で書いております。カナダの家には蛍光灯が少なく、この台所は裸電球を幾つか混ぜ合わせたような電灯で、日本の昔の深夜の病院を連想させてくれます。横にはワインの空瓶と湿った「かっぱえびせん」もどき・・・
それなりに華やかでございます。
(エヘンッ)私事ではありますが、本年は私のカナダ移住7周年でございます。大阪府同窓会の70周年、私の7周年。はい、何の関わりもございません。承知いたしております。いえっ、なにも諸先生方から何のお祝いを頂戴しようなどと思っているわけでもございません。ただ、ただ感慨深いだけでございます。
あ~~、うらやましい。コンパニオンの方もおられるのかしら?
おひとかたで結構でございますので、私のほうにも・・・
さて、大阪でございます。多くの先生方がうら若き時代に母校九歯大に入学し、6年間、或いは7年間、はたまた8年、9年間の小倉での学生生活を送り、身も心もケガレ果てた後に、もといっ、心身ともに成長されたのちに、大阪での歯科医師生活を始められたわけです。そして、大阪府同窓会が設立されて70年・・・
ベテランの先生方、ご苦労様でした。もう20年も前にもなりますが、私なぞが卒後、故郷大阪に戻り、働かせていただくにあたって、この大阪府同窓会の存在をいかに頼もしく感じたことか、今もって筆舌に尽くしがたい思いがございます。燦燦と注ぐお天道様の光の下、肌着一枚、裸一貫で国民健康のために働かれてきた先生方の御姿が想像され感極まるものがございます。
現在、同窓会の中心を担っておられる先生方、ご苦労様でございます。お天道様が傾き始め、それでもなお夕日の美しい光景の中、半袖のシャツにサングラススタイルでの先生方の身を粉にしてのご尽力のお陰で、若い先生方、或いは新しく大阪での歯科医師生活を始められた先生方が安心して技術の研鑽とともに人格の向上にも精魂を尽くすことの出来る環境ここにあり、と理解し、常に尊敬しておる次第でございます。
これからの歯科界、同窓会を背負っていかれる若い先生方、ご苦労様でございます。お天道様もトップリと暮れてしまい、ここはカナダか?と思わせるような強く冷たい風が吹きすさぶ今日この頃、
♪ く~も~り~ガラスを 手~で ふ~ぃ~て~♪
♪ あな~た~ 明日が~ ♪ み~えまぁす~か~♪
先生方、見えます。見えますとも。カナダでも、厳しい冬のあとにはチューリップも咲きます。桜も咲きます。きっと素晴らしい明日がきますとも・・・
これからの季節、肌着一枚、半袖一枚では寒いでしょうから十分暖かくしながら、母校九歯大の栄光、伝統を背負いながらの国民健康に長きにわたるご貢献、ご活躍を祈念しております。
さても、またしても大阪でございます。
私は大阪で生まれた男やさかい~♪ 大阪が大好きでございます。大阪を離れて早7年、私は、飛行機を利用するときには、可能な限り伊丹空港を利用するようにしております。空港に行くまでの行程を楽しみたいからでございます。
大阪でございます。
関空特急などを使いますと、まぁたしかに無残な「りんくうパパラ」跡などが目に入ってくるわけでございますが、これは昨今のアホな行政のさせる業でございまして、大阪本来の色と申し上げるわけにはいかないわけでございます。
その点、空港バスなどで伊丹へ向かいますと、その際の眺めが、これが大阪ですばらしいわけでございます。 新幹線の軌道を超えますと、右にも左にも怪しげな、あるいは爽やかなラブホ、いえ、ファッションホテル、あるいはブティックホテルの看板も目に入ってきます。かつての「○○御苑」というような、野暮な名前はもうございません。
「さかさくらげ」なんて言葉はもう死語でございましょう。
「○○ピエロ」「おひるね○○」なんて、老若男女多くの方々に開放を訴えているような名前も実にナイスです。カナダにもそんな場所が欲しいものです。私ごときも現役に戻れるかも知れぬ、などと一人瞑想に耽るわけでございます。
さて、そうかと思えば、そのすぐ後に王将のギョウザ、チチヤスのヨーグルト、はたまた工場の煙突、スポーツ新聞社、目の周りでは割り込み、追い越しを狙っているヤンキーの兄ちゃん、ネェちゃんがたくさんおられます。まさしく、カオス、ケイオス!混沌でございます。これぞ大阪といわざるを得ません。
カナダの日本のガイドブックには決してこういう大阪らしい味を紹介するものはございません。大阪が恋しゅうございます。
大阪でございます。
プロ野球セントラルリーグ・ペナントレース。29日現在、阪神タイガースの最後の頑張りに目頭を熱くしているのは決して私だけであるまい、とお察ししております。有事の際、いえっ、もしもの喜びの際には、あの柵なんてなんのその、むしろ飛び込んだ後に上がりやすくしてくれた、あの川辺の遊歩道のおかげで、著しく熱く狂った・・・もといっ、熱狂的なファンがまたしても飛び込み、街中を文字通り熱くしてくれること請け合いでございます。まさしく、カオス、ケイオス!混沌でございます。
ホットなニュースがまたしてもカナダに流れてくること間違いございません。
前回は、カナダはトロントでも数多くの熱い男たちが寒い川にダイブしておりました。日本のダイブともども、テレビ放送され、青い目の綺麗なキャスターのねぇちゃんがWow!!なんて言っておりました。
大阪が恋しゅうございます。
なんだかんだと、アホなことを並べてまいりましたが、やはり大阪が恋しゅうございます。とりわけ、私にとっては母校 九州歯科大学大阪府同窓会は心のふるさとでございます。そう言えば、数年前に講演会に呼んでいただいたことがありました。
「うん、くすはら君、よかったよ。次回もきっと呼ぶから是非来てくれたまえ。」
もう4年も前の事でございます。一向にお呼びはございません。
寂しゅうございます。まるで、時が止まっているかのようでございます。
と、思い出に耽っておりましたところ、掛け時計に目をやれば時刻は午前零時を過ぎました。冗談もほどほどにせねばなりません。またいつの日にか、諸先生方とご一緒に歓談の機会が訪れることを願いながら、遠く離れたカナダはバンクーバーより、 九州歯科大学大阪府同窓会70周年を心からお祝いしつつ
布団の中にもぐりこみます。
九州歯科大 バンザイ!
34期 くすはら でございました。
(平成18年9月 寄稿)
この度は同窓会創立70周年おめでとうございます。同窓会の皆様、お元気にお過ごしでしょうか?21年間皆様と一緒に伝統ある同窓会に在籍できた事を誇りに思っております。
大阪を離れてからあっという間に6年半が過ぎようとしていますが、今沖縄の離島に住んでいます。島の名前は座間味島といいます。ダイビングとホエールウォッチングで名を知られた島です。座間味島について、又そこでどの様に過ごしているかをご報告したいと思います。
座間味島は沖縄本島那覇から南西へ約40kmに浮かぶ大小10余りの島々から成る座間味村の一部で、三つの有人島(座間味・阿嘉・慶留間島)の中で一番大きな島です。那覇の泊港から高速船で50分、フェリーで2時間、小さな飛行機で15分かかります。座間味村は私が歯科医院を開設するまでは無歯科医村でした。昭和35年頃より巡回歯科診療班が派遣されるようになってからずっと1年に1度1ヶ月間の診療をしていました。沖縄全体では8箇所で巡回歯科診療が行われていた様です。座間味村は小生の診療所開設で無歯科医村を解消したことになりますが、未だに沖縄県では2離島で巡回歯科診療が継続されています。
座間味村は夏のダイビングと冬場のホエールウォッチングを主たる産業と位置付けている観光立村です。年間約9万人弱の観光客が訪れます。農業は農協が無く個人で家族親戚のために栽培している状態です。ただその中で近年「インカのめざめ」の名前で栽培されているジャガイモが人気を得ています。そのうちに座間味産のジャガイモとしてブランド化される日も間近でしょう。
座間味周辺の海域は透明度40mを誇る美しい珊瑚礁に囲まれています。そのためダイビングやシュノーケルにシーカヤックが盛んに行われています。沖縄中のダイビングショップのうち、半数以上の40数軒ものショップが座間味村に存在します。
宿泊施設は本島のようなリゾートホテルはありませんが、3島を合わせるとホテル形式の3軒を含めて民宿が70軒近くあります。島には展望台が5箇所あり島全体の海岸線を見ることが出来ます。中でも座間味地区を見下ろせる高月山と阿真地区を見渡せる神の浜展望台がお勧めです。冬場のホエールウォッチングの時期になると、北側の稲崎展望台から沖合いに現れるザトウクジラを監視してホエールウォッチング船にクジラの位置を知らせるシステムが出来上がっています。そのため那覇から出かけてくると船と違い座間味島から出る船ではほぼ100%クジラに出合うことが出来ます。海面に飛び出すブリーチ、船の下を通過するパフォーマンスはその時のクジラのご機嫌次第ですが、うまくいけばそのような幸運に恵まれることが出来るでしょう。
ダイビングのスポットは約40を超える上に島全体が入り組んだ地形をしているため、北風が吹いても南風が吹いても更に東西どちらの風向きでも潜れる場所があるといわれています。台風の時以外は一年中ダイビングが出来ます。
さて診療に関してですが、診療時間は9時から12時まで、2時間休憩して2時から5時までの一日6時間で、冬場でも日没前に診療を終えるようにしています。休日は日曜と水曜で土曜日は昼から休みです。休日は天気の良い日には近場のビーチから磯釣りを楽しんでいます。インターラインロッドの釣り竿に浮きを付け、ステンレスの沖アミ用の籠を仕掛けて、磯からの投げ釣りを楽しんでいます。主にエーグヮー(アイゴ)、イラプチャー、時には大物のガーラが釣れ、釣れた魚はその晩の刺身になります。自宅前にベンチを作っていただいたので、その場所が近所の方達とのゆんたく(おしゃべり)の場になります。夜遅く12時近くまで続くことも珍しくありません。
4月初めの海開きから10月の初めまでは泳ぐことが出来ますので、診療が終わってからでも村営住宅の自宅から直ぐそばのビーチで汗を流しています。今年は例年になく泳ぐ時間があり、9月初めに参加した水泳部のOB会では卒業してからの記録としては最高のタイムを出しました。
女房とふたり共、最初は島での生活はとても退屈で時間を弄ぶのではと思っていましたが、島の様々な行事や学校の運動会、海神祭、敬老会、座間味まつり、成人式、生年合同祝い等数えればきりが無いほどで、ほとんど全てに参加して忙しい生活を送っています。女房は村の教育委員会による英会話教室の講師として、座間味島だけでなく隣の阿嘉島まで出かけています。又、婦人会の一員として色んなイベントの折に近所のご婦人達と一緒に余興に出たり、コーラスのグループやハワイアンフラにも参加して忙しい限りです。
そんな楽しい生活を過ごしているのですが、こと本業の方はというと、心もとない日々です。座間味島の人口677人では十分な収入をあげることが出来ないと最初からわかっていたとは言え、8月の総点数が25000点という現実を見るにつけ毎日これからどの様になっていくのか、不安を隠せないのが実情です。それでも、前の晩は眠れない程痛んで顔を腫らして来院した患者さんが、「本当に楽になりました」とお礼を言って帰っていく姿を見ていると、苦しくともこの座間味島に居る意味があるのかな、と思ったりしています。
離島の医療過疎の状態は。小児科と産婦人科等の問題は新聞やマスコミでも大きく取り上げられていますが、こと歯科については一言もでてきません。何故、離島や過疎地での歯科の問題が表に出てこないのか不思議です。座間味島では孤軍奮闘していますが、人口のすくない地域を個人の歯科医が支えて行くには荷が重過ぎる気がします。いつまで持ちこたえることが出来るかわかりませんが、精一杯頑張っていくつもりです。
先日、村議会の議員選挙が行われ、リンカーンフォーラムの支援のもとに、全国で一番人口の少ない地域での公開討論会が初めて開かれて、新しく選出された議員の中に新人3人が当選しました。これから益々厳しい状況に置かれる離島ですが、この先にはほのかな明かりが見えてきたのかなと、希望を持った次第です。
青い青い珊瑚礁との海と満点の星空!。。。。。座間味には台風さえ来なければ最高の島だと皆が言っています。皆様、ぜひ一度遊びに来てください。
〒901-3403 沖縄県島尻郡座間味村阿真532-1 池 徹
(平成18年9月 寄稿
電車から降りようとして切符がどこにいったかわからなくなることはありませんか?私は必ずと言っていいほどどこにいったかわからなくなる癖があり、そのつどパニックに陥ります。
8月の暑い日のこと南港のインテックス大阪であったデンタルショーからの帰り、難波から地下鉄に乗ったときのことでした。折からの猛暑、額から汗をながしてやれやれとすわった脳裏にかすかな不安がよぎりました。「ひょっとしたらまた切符を紛失したのはないのか?」その日は悪い条件が揃ってました。①例年になく暑く頭がボーとしていたこと。②デンタルショーで意地汚くもらってきた試供品で紙バッグが破れそうなほど重かったので疲れてたこと。38万8000円もする光重合器を柄にもなく注文して興奮していたこと。(50になろうとするおっさんが情けない)
改札口の前でいかにも切符がみつかりませんという風で探すのはいやなものだ。難波から梅田につくまでの地下鉄のなかで切符のあるのを確認して、余裕をもって自動改札にむかいたいと思ったので、財布の中から探しはじめた。似たような紙切れがあって一瞬喜んだが5枚たまると缶コーヒーがもらえる券だった。ポケットに手を入れて愕然とした。左右とも500円大の穴があいていた。あわててもう一度財布を探す。ポケットに手をいれる。あるはずがない。前の席の茶髪の若い女性がこちらの振る舞いがおかしいのか笑いをこらえている。(ような気がする。)
切符をなくした乗客はアリバイのない無実の容疑者に似ている。乗車券をかったことを証明してくれる人がいない。このままでは無賃乗車の罪を着せられ、始発駅から終着駅までの3倍払わされるかもしれない。最駅長室に連れていかれ、そのまま曽根崎署の留置所にぶち込まれ、歯科医師免許を取り上げられる事態になりかねない。230円の切符のせいで家族を路頭に迷わすわけにはいかない。
耳たぶに手をやる。(以前切符紛失防止に耳の穴に切符を丸めていれていた時期があった。が自動改札になってから切符を丸めると通らなくなってやめた。)「これだけ探してもないのだから改札口で事情をいって勘弁してもらおう。」と決心した。「デンタルショーで試供品をもらったくらいでは赤字やがな。」この期におよんでも、けちなことを考えている。
いろんな思いが交錯するなか淀屋橋から梅田に着いた。暗い気持ちで腰を上げると座席に切符が落ちていた。尻に轢いていたのだった。少しほっとして小さい切符を握り締め自動改札口に急いだ。
同窓生の皆さん、受診抑制の続く昨今、切符をなくしても患者さんからの信頼はなくさないようにしましょう。(落ちの着け方が少し強引だったかな。)
(九州歯科大学同窓会近畿北陸地区だより 平成14年1月31日発行掲載)
平成16年1月14日、大先輩平山稔先生が御逝去されました。86歳でした。古き時代から現代を知る先生が又一人少なくなりました。先生を失った事は痛恨の極みで惜別の情に耐えません。あの殺しても死なないと思われるような頑健な体の先生もガンには勝てませんでした。平成15年1月の新年会に「君が行くなら行きたい」とお電話を頂きまだお元気そうでしたが、足腰は大部衰えを感じました。新年会で乾杯の発声をされたのが最後となりました。平成8年9月発行大阪広報2号に投稿された「80才を考える」の中で検査の結果、膀胱にポリープを発見と記されてましたが、前立腺の手術の後も全身に転移したのでしょう。先生は博学で趣味も広く、演歌も上手で黒田節、無法松の一生等が十八番でした。スポーツは万能で各種の表彰を受けられ、昭和41年10月に体育功労の文部大臣表彰を受けられました。今では各界、大臣表彰は余り気にも留まりませんが、当時は祝典もありました。
先生は鹿児島県出身で、昭和11年台北州立方一中学校卒、昭和16年3月九州歯科医学専学校卒、昭和17年1月軍隊入隊、昭和25年豊中市服部に歯科医院開設、昭和25年国立刀根山病院勤務、昭和45年4月病院退職、歯科医院専念、昭和35年医学博士(九州大学)授与、が略歴です。
先生はいつもユーモアで周りの者を笑いの渦に巻き込んで、お酒が入ると女性の話題が出始めると台湾や韓国での話題がお得意でした。反面、同窓の事では何でも知っており、何でもやらねば気の済まない方で、中心的でなければならないとも見えました。昼頃電話で「オイ、堀之内、今夜7時から家で役員会をやるから中村にもそう言ってくれ」とか「大学の教授が大阪歯科大学に来るから明日伊丹に行って案内してくれ、夜は梅田で食事するから」こんなことは度々の事で、唯今の役員さんには考えられない事だと思います。後に古庄先生も役員に入って来られた。色々な事を経験され、昔と現代の違いを知って頂けると思います。役員会の後は豊中からの帰り道、阪急の十三、南のアルサロ、キャバレーに同行しました。先生には素晴らしい無形の財産と感銘を与えて頂きました。
近畿北陸連合会会長には生甲斐を感じておられてようで、ご挨拶の初めには必ずジェーン台風等で被害を受けた同窓をお助けするために、云々と云って居られました。先生は永年同窓会本部の副会長に就任され、木造校舎病院の改築に、又講堂の新築等には努力され、支部では吾々数少ない役員が寄付金を集めに叱咤激励されながら、各先輩の先生方を訪問して寄付金集めに廻りました。平山稔先生は、何事も一生懸命で滋味に溢れ、何でも相談に応じて下さいましたが、何処迄も突き進んで行く九州人としての生き方が反対、不満な御意見をお持ちの先輩の先生の中には多数あったのも事実で、現在でもそう云っておられる先輩もあります。
色々書いて平山先生の追悼文にならなかったかも知れませんが、50年来のお付き合いので思い出した事を書きました。昨年10月九歯大同窓会沿革史編纂の原稿取材に豊中服部の御自宅に行きましたが資料は全然無く、少し物忘れも出て、歩けないとも云っておられました。
10月28日先生からお電話を頂いて、11月4日に豊中市民病院に入院、レントゲン検査の結果次第では、1ヶ月位入院するだろうとの事で、これが最後のお声でした。12月30日に電話してみましたら奥さんから、食道ガンで何も食べられずアイスクリームを食べていると聞きました。あれから半月後に亡くなられました。先生にお二人の御子息が先生の御遺徳を受けられ、先生を追い越す程に成長され、御長男は、いつも先生の自慢の種でした。薬効奏せず帰らぬ人となられました稔先生の御冥福と御遺族の御多幸をお祈りして追悼の辞と致します。 合掌
平成16年9月25日
(九歯大大阪広報 第4号 平成16年10月28日発行掲載)